完璧な先生よりも

ある人と、ケンカをしたんです。
きっかけは全然大したことじゃないんですよ〜

それで、夜9時過ぎ。
星空の下、玄関に遊びに来ていたなめくじを息子(5歳)と眺めながら、

「ママさ、ケンカしちゃって、仲直りが難しいんだ。」

と言ってみました。

息子「へー。なんでケンカしちゃったの?」
私「かくかくしかじか」
息子「じゃあ、ごめんねって言いなよ。」
私「ごめんねって言ったんだけど、ママがごめんねって言うのが遅くて、もっとケンカになっちゃったの。」
息子「ごめんねって、ちゃんと、言ったんだね。それはいいけど…うーん。」

しばし、なめくじを見つめて考え込む息子。

息子「自分の気持ちをちゃんと伝えるために、『本当に』をつけて、『本当にごめんね』って言ったらどうかな?」
私「そうか。気持ちをちゃんと、伝えようとしないと、いけないね。本当にごめんねって、もう一度言ってみるよ。」

ソーシャルディスタンス実行中のラーメン屋のカウンターで、「離れるのやだ。ママの椅子と僕の椅子をぴったりくっつけて、ギューっとしながら食べたい!」と甘えて、椅子も体もくっつきながら食べる。夜は私が息子の頭を撫でながら、私が歌う子守唄を聴きながらじゃないと眠れない。昨日、私が大切にしていた琉球ガラスのコップを息子が割った。でも、「ごめんなさい」がすぐ言えない息子。だけど、人の相談にこんなふうに傾聴したり共感したり、自分が苦手な「ごめんなさい」について考えたり。なんか、思っていたよりもずっと、息子の心は大きくなってるなーと思いました。そして、相談に乗っている時の息子の顔は、まんざらでもないというか、男の顔をしていました笑

大人はなんでも知っている?
なんでもできる?
そんなことありません。
わからないこと、迷うこと、たくさんあります。

それを子供に相談する。迷っている自分を子供に表現することも悪くないなぁ。見えないことが見えてくるなぁと思いました。

大人というのは、ただそこに立っているだけでも、子供にとっては存在感…言い換えれば、威圧感を感じるものです。物理的にどうしようもない「大、小」の壁があるわけだから、その壁をなくして子供の心を開くには目線を合わせなければいけません。

幼稚園や保育園の先生はそれをわかっていて、子供の目線の高さに合わせるように、腰をかがめたりします。それは子供が心を開きやすくするためであると同時に、大人のほうから、「私はあなたと同じ存在。私も心を開いていますよ。」という態度です。

大人も、子供に心を開く。それは、子供と同じ目線をもつこと。困ったことを相談し合える存在としていること。ある時は、大人も、子供を頼っていい。
大人も子供も、頼られることは嬉しい。頼られたら、大人も子供も、一生懸命考える。

レッスンでも、ある部分の表現について、迷うことがあります。それは、リュシーメソッドの理論と私の感覚と生徒さんの感覚という三つの要素があり、あらゆる表現の可能性が混在しているからです。

理論があるからといって、絶対ではありません。『理論的には整合性がとれていても、それを君の感覚が拒むなら、君の感覚の方を大事にしなさい。』というのは稲森先生の言葉です。

理論もある。私の感覚もある。楽譜を前にして、その間で迷うことがあるのです。そういう時は、その部分を生徒がどう感じとっているか、どう弾きたいのかを聞きます。自分で考え、自分で選ばせるんです。それは、私が迷っていることを伝え、相談することから始まります。『先生も、迷うんだ。』もしかしたら、頼りない先生、と言えることかもしれませんが、そうやって、私からも心を開き、一緒に相談して考える方が、楽しいなぁと思うんです。

今の時代、知りたいことの多くは、ネットで調べればほぼ全ての答えは見つかります。でも、人と人とが信じ合えるということや、楽譜に書かれていない目には見えないものを自分なりに考え表現していくことの価値というのは、自分が経験することでしか見つけられないものです。

どんなに講師歴が長くなったとしても、やはり私は、完璧な先生になるよりは、子供と同じ目線をもち、どこか頼りないぐらいのピアノの先生でいたいなぁと思います。